金木犀味のラムネ

金木犀とラムネが大好きなこじらせサブ(ス)カルチャー系学生が普段の生活で出せない部分を出していく予定。

"Welcome to the Black Parade"

My Chemical Romance - "Welcome to the Black Parade" - YouTube




「死にたい」と口にする人は「生きたい」のだ、とこの曲を聞いて考えていた。今日は死生観と自分について。

死にたい、とか死を目の当たりにする現場(葬儀、事故現場等)には生命力が溢れてるという矛盾。死について人間が考えるとき、必ず生きることもセットになってついてきてるんじゃないか。死にたいんじゃなくて、もっと幸せに生きたいだけなんだと思うんだ。
通夜や葬式で棺桶に入った死体、遺体、生前のままの姿で花に埋まっている。それは必ずしも悲しい象徴ではなくて、僕らに生きることとはなにかを教えてくれてるんじゃないかって考えるようになった。現実はつらい、惜しい人を亡くした、でもその人はこの世で生を全うしたのだ。誰よりも、その人に相応しい人生を堂々たるその姿で歩んできた。生きるエネルギー。生きていた、この人は生きていたのだ。生命力とはこの瞬間にエネルギーとなって放出してるんじゃないか。冷たくなったその抜け殻のような姿は、エネルギーが放出されたからじゃないのか。
講義で先生が興味深いことを言っていた。「新生児が誕生した時にあげる泣き声は、生物学的にいくと勿論呼吸の確認、肺呼吸への変身であるが、あれは分娩室という胎児にとって最も過酷な空間へと産み出されたことによる悲鳴である」という説。なんの根拠もないのに、これほどまで説得力のある言葉を聞いたのは久しい。
私たちは産まれた時から死んでいる説、も面白そう。

葬式が悲しいとか、身内が死んでつらいのはとてもよくわかる。私に分からない訳がない。わかるよ、わかる。そりゃわかるよ。私は身内を亡くしているから。実の父親を亡くしているから。
棺桶で眠るその姿は、とても美しかった。まるで、「死んでいる」かのように綺麗だった。


火葬が主な日本、我が家も火葬だった。火葬が嫌だという人もいるが、んー、まあそこは任せる。衛生面だと火葬が一番だと思うんだが、私にとってその人が「死んだ」瞬間は、火葬だったかな。うん。火葬は死の確認行為で、私の中で死を受け入れるための儀式っぽいところはあるかもしれない。
受け入れないと、精神鑑定されそう。やばっ。


死ぬ=生きる、は矛盾だよね。でも死ぬために日々過ごしてると思うと、死ぬ=生きるという命題は成り立つんじゃない?私の頭じゃ足りないわ、キャパオーバーです。だれか一緒に考えてよ。




He said, "Son when you grow up,
would you be the saviour of the broken, 
the beaten and the damned?"
He said "Will you defeat them,
your demons, and all the non-believers, 
the plans that they have made?"
"Because one day I'll leave you,
A phantom to lead you in the summer,
To join The Black Parade."


オヤジはこう言ってたよ:

大人になったら

困ってる人や苦しんでる人の役に立ってくれ

こうも言ってた:

心の中の醜い自分に打ち勝って

周りからそんなの無駄だと言われても負けないで

そいつらを見返してやれるか?

だってな,いつかはお前一人になる時が来るんだ

そうなったらお前にしてやれることはもういくつもない

夏の世界に連れ出して

死のパレードに入れてやるくらいしかできないんだ


歌詞の引用はこちら⇒およげ!対訳くん: Welcome To The Black Parade マイ・ケミカル・ロマンス (My Chemical Romance)